昭和村の基本文献等

2016年12月 6日 (火)

奥会津・大芦試掘調査初日12/5

■2016年12月6日(火) 雪の予報

 
 昨日の午後1時より4時、大芦の国道改良予定路線の遺跡可能性のため試掘調査の初日。6名で作業。トレンチ4本(2×10m)し地山(基盤層)まで掘削。畑の地権者の男性が見学に来られる。
 
 今日は2日目、8時30分より4時。雪予報。
 

20161207img_8060
 
 
 

20161205dsc04554  
 
20161205dsc04571

2016年9月15日 (木)

広報しょうわ10月1日号 の原稿(連載34回) 伊之重のアキナイと蔡温の商業優先政策

■ 9月15日(木) 曇り


 徹夜で広報しょうわ10月1日号の原稿を書いて、未明に、役場総務課広報係宛送付した。五十嵐伊之重のアキナイについて、8月16日、23日の調査資料の解読でわかることを概報した。11月号にも継続した内容を書く(蔡温のことがアタマの中にある。熟成中)。
 村教委の根本さん、からむし工芸博物館の吉田さんにも原稿と資料の写しを送付した。
 
 季節柄、山のキノコ、、、のことを書いた。
 
 昨日、父・清一は野生キノコを採ってきた。キノコが出始めている。食べられるかどうか?不明。

 
■ グレゴリー・スミッツ、渡辺美季訳『琉球王国の自画像』(2011年、ぺりかん社)。蔡温(さいおん)は経済面においては商業を重視し、それに精通した人物を重用(ちょうよう)している。蔡温は商業活動に対する国家の規制や課税を緩和したが---それはかなりの成功を収めた---、その著書『独物語』によると、社会に富を還元するためにさまざまな商売を盛んにすることが彼のねらいであった(2ページ 日本語版への序文)。

 江戸時代後期から明治時代を奥会津に生きた人たち、特に、産物の流通・販売に関わった人たちを、ひとつの村落に一人の人物に焦点を当てて調査を試みている。
 
 三島町の編み組み細工は商品そのものよりも「モノが生まれる場所をたずねて、そこのフリーマーケットで求める」ことが定着化していると見える。3月、6月、10月の定期市がそれである。インターネットで注文し自宅に届く時代でありながら、自ら訪ねて求めることに価値がある。

 一方、昭和村のからむしは、織物用具(機)によらない、毛糸編みの技法で繊維を編み帽子を作る、、、ような、機織りからの解放による素材の持つ意味の多様化、専門家の手から庶民の手に素材が移ったとたんに息を吹き返しており、その専門的狭隘な視野からの逸脱こそが、新しさを生んでいる。そして、モノが生まれる場所を訪ねて求める(道の駅しょうわ)。
 
 まさに琉球王国の蔡温が目指したものではないか?

 ----
 
 蔡温(1682年 - 1762年)は琉球王国に生きた人で中国大陸へも渡っている。

Sai_on_2 画像はウィキより


 
   畑から文化が生まれる → 2014年4月 蔡温(沖縄訪問)


 
 
■9/14アサ4時。午前4時台【明日へのことば】 “禎子(さだこ)の折り鶴”を世界に「原爆の子の像」禎子さんの兄 佐々木雅弘。広島から福岡に移住、その後、再び父が語り始め、それを子が受け、兄としてアメリカで対話を続けた話を、聞いた。語り部が語ることで育つ、意味が深まることをインタビューは明らかにしている。若い女性がインタビューしているが、物足りないところもあったが、話者がそれをカバーしておられた。

 8/3アサ4時。明日へのことば。戦争犠牲者に敵も味方もない。森重昭(広島原爆民間歴史研究家)も、心に残った放送でした(NHKラジオ第一放送)。

 インタビュー、、、、語りの力が確認できた放送でした。


----------
 
■ 日本イヌワシ研究会より封書が届き、10月8日から10日まで開催予定であった合同調査会が中止になった。8月30日に台風10号による被害地が調査対象場所(北上高地)であったため、です。総会にかかる提出文書を送付し、今日、年会費を送付します。
 
 

■奥会津昭和のカスミソウも → リレーフレッシュネス広島 みやもと 
201609
松島義幸さんのブログより写真転載
---
 
■ ある方から以下のようなメールを昨日にいただいた。
 
 ---

 今年の野菜・ナスの産地の話です。単価安です。昨年までの高単価をあてこんで作付を増加させていたところに、気候により前進、出荷集中の山ができて相場低迷、管理に手が入らない、相場が戻ってきたときに品質が伴わず単価持合い、収入減、おそらくがっかりした生産者は来年作付を減らし、来年の生産急減・・・・ 。

 農産物は大体同じような状況です。

 ある花き品目は種苗会社の指導で2条植でしたが、ここ15年でほとんど1条になりました。出荷本数が変わらず、1条植えのほうが、株の管理に手が入るので品質が向上するなどメリットが多いという結果でした。 
 種苗会社から「一条にしたら売り上げ下がる」と言われ続けていたので。結果は一条(粗植)はメリットが多いということで主流となりました。
 反面リシアンサスなどはもっと密植にしたほうが良いといわれています。
 このように定植間隔は狙った展開に合わせて変わっていくように思います。

 ---

 我が家(大岐)は葉タバコ栽培の管理機を引き継いだので1条植えでカスミソウを栽培しています。現在は35cm株間で植えているので、20間ハウス(36m)に1畝(うね)100株定植します。ハウス両端は、雨が吹き込むので、1mほど明けて畝立て、雨天時にはそこでコモを広げて採花します。
 
 

■ 9月3日・4日に訪問した北海道の道東の生産者の皆さんとは、1条植えの株間をどのようにするのか?でかなり議論しました。試験で27cm株間でやったこともあったようです。
 そして、なぜ切り花を行うと次の開花が促進されるのか?も大きな議論となりました。「切っている後から咲いてくる」という科学的理由の議論でした。CO2か、栄養分散か、切った事によるストレス(エチレン等の発生)か、、、、、
 
 
 福嶋さんの1条畝は上角がカッチリしてとても美しい形状でした。

2016093img_5731
 
 
2016093img_5750
 
 
2016093dsc06431
 
 
2016093dsc06406 

 除湿器。コロナ CD-P6315

2016093dsc06416   

2016093dsc06417  
 福嶋淳子さんが長消しゴムをカッターで削って製作しているカスミソウの品種スタンプ。
 
2016093dsc06444
 福嶋さん宅付近、東藻琴末広のマツの樹。
----------

20160914dsc07095
 
20160914dsc07014
 会津藩編さん(文化年間)の『新編会津風土記』巻之八十二「野尻組」は、平地があり水田も多いとし「村民耕作ヲ業トシ、又 麻ヲ植テ余産トス、山中ヨリ多ク諸菌ヲ出ス」と記しています。
 
20160914dsc05450
 
湿茸(しめじ)漬  伊之重が神田鎌倉町の伊丹屋鈴木善助商店宛てに発送していたことが推察される。発送されなかった木の荷札が残っていた(8月23日調査)。裏面には道中安全とある。村長就任前(明治21年以前)と思われる。
明治三十六年(一九〇三)の四月から読売新聞に「渡世のいろいろ」として伊丹屋鈴木善助商店が紹介されており、二十二軒ある乾物屋のうち二番目に古い(創業は文化文政頃)としています(『実業の栞』)。
 
20160914dsc05447
 
 
□にイは五十嵐伊之重の荷判。福田屋。
得宗真髄居士(五十嵐伊之重)明治34年4月27日没
20160914dsc05855
 
 
20160915
 
 伊之重の父は又孝(直重)。□に又が荷判。福多屋。岩代  大沼郡  大芦村。
 右はうけとり判(請取)
 華蔵浄巌信士(五十嵐直重、あるいは又孝)明治37年7月3日没
-----------
 
同様なものは三島町大谷でも確認している(2015年12月4日)
 
20151204dsc01732_2
 
20151204dsc01731
海上安全   舟で越後新潟港に、津川から陸路で大谷に。

2016年8月23日 (火)

台風9号通過後、圃場巡回、伊之重のしめじ漬荷札(東京宛て)

■2016年8月23日(火) 小雨、晴れ曇り


 朝、堤防の防水扉2基を見た。
 
 我が家の大型ハウス(川向)は冠水していたが、水が退いて、朝の出荷物を搬入できた。越流した道路の破損は無い。洗掘は見られなかった。
 
 岩下(下)、大田(下)はハウスまわりは冠水している。
 
 
■ 22日午後に確認した資料。大芦の土蔵は9月中に解体される。

 
20160823dsc05447
21.5*6.0*1.4 木材荷札

東京神田 鎌倉町 鈴木善助様(明治時代中期と推定)
五十嵐伊之重の発送産物。
しめじ漬

20160823dsc05449_2

20160823dsc05503
 
  第40号は無い(伊之重の投稿した会津青苧の原稿が掲載されている)。

  『大日本農会報告』27-51号 欠番有り。明治16年~18年

  -------
20160823dsc05432    
 
20160823dsc05528   昭和村大岐、そできぼ
 
20160823dsc05527     
20160823dsc05530       
20160823dsc05534      
 
20160823dsc05537      
20160823dsc05525     
20160823dsc05434     

  大型ハウス内
 
 
20160823dsc05574      
20160823dsc05557
岩下の堰は土砂流入で遮断
 
 

2016年8月17日 (水)

泣く明大生 台風7号の雨 オシメサマ  アサ青苧明治時代の記録

■2016年8月17日(水)雨、台風7号


 
 
 16日は午前3時30分よりヘッドライト装着でかすみ草を採花。大田圃場でマグネット2棟(2作なのだが同時開花中)。携帯ラジオでNHK第一放送954mhzの東京発の電波を受信している(会津若松放送局の電波は博士山1482mがあるため弱くてだめ)。

 さて昨朝はこれまで柔道が終わって、五輪卓球の実況放送で、特に男子ダブルスの試合後の丹羽孝希選手(21歳、明治大学在学中)のコメントが良かった。北海道苫小牧出身。
 
 卓球の放送が聞きたくて聞いているのではなく、朝のラジオとしてNHKをかけているだけなのだが、放送ではじめて丹羽選手という人を知り、表情がクールで、、、という解説・放送、、、、にかかわらず、インタビュー後半で、勝って泣いたのである。泣いたのは日本卓球界を牽引している水谷選手についてふれたときであった。「プレッシャーのなかで戦っている水谷さん、、、、(泣く)」

 -----


 昨夜から、ひさしぶりのまとまった雨、、、となっている。台風7号が太平洋岸、当地からみて東側海上を北上している関係から降雨となっている。
 昨夕は、すべてのハウスの妻部・出入り口を閉めた。

 今日は午前中に歯科受診(左下治療中)。
 

■ 8月17日 午前3時30分より採花。7時より調整作業。11時より13時30分大芦にて土蔵解体される方の土蔵内の古文書調査(村教委根本君らと4名)。 昼食をたべずに帰宅し作業小屋でかすみ草の調整作業。14時に明治大学の鞍田崇さんら自動車3台で来られる。西会津国際芸術村の3名の女性、東北大学の准教授の山田仁史さん。

 山田さんは台湾での研究もされているので、大正時代の加藤清之助『苧麻』についても情報の提供をお願いした。松山誠さんに国会図書館で雑誌を調べてもらいことしは17年ぶりに貴重な情報が得られた。 → 菅家博昭 加藤清之助    →2016年6月の加藤清之助 昭和9年南大東島    →6/18加藤清之助(松山誠さんの調査協力:台湾の大日本製糖 北港製糖所  苗栗製糖所長




 ---
  → こととか
 

 ----

 一行が帰られたあとに、作業継続し17時より岩下のスターマイン枝の採花。作業終了は20時30分。それから夕食。

 ---

 鞍田崇さんから8月25日の午後に、喰丸小学校にて、来村の明大生らの調査報告会を計画中、とのことで詳細は後日に。当初、ファーマーズカフェ大芦家で開催予定でしたが、内容・規模の関係から、喰丸小での開催となりました。
 
 
■ 山田仁史さんは、宮城県内のワラのほこらの写真を持参される(2010年6月19日撮影)。毎年作るオフクラというもの。手間暇かかるので、辛抱しないとわかんねんだ、という意味があるらしい、、、、

 昨年秋の喜多方市大楚々木の「オシメサマ」について共通の立地、意味、形状があるように思えた。山田さんは「占有(しめる)」という語感について語られた。
 
 昨年夏に大岐の裏の石祠類を案内して、その後、このような資料があるとして持参されたもので、たいへん示唆に富む民俗行事である(仙台市史に掲載されているようだ)。


 
 

  私は上記のウェブサイトを見て、2015年9月19日、10月21日に現地を調査した。

 
20151021img_8193
 
  2015-10-21菅家博昭撮影35mm
  大楚々木 オシメサマ
 
 
20151021dsc08771
 
160700
 
20160817tf07_04
-------
■ 2016年8月16日調査・五十嵐家文書  たいへん貴重な文書類を拝見した。
 明治37年8月13日(旧暦7月3日)に87歳で無くなった直重(旧名・又孝)が残した書面(アサやカラムシのアキナイ取引記録、明治時代中期)。又右ェ門・宗則とも名乗っている。
20160816eiseidsc04706   
 青苧  かげ、、、とみえる。カゲソは「かげ」と表記されている。かげ拾貫匁(10貫目)。
1貫目3.75kg。10貫目 37.5kg。
20160816eiseidsc04691   
 麻買入   アサはカラムシとならび重要な産物であり、その規格がわかる。上・中・下で表現する品質。
 帳票類の品質・等階級・呼称は、時代を反映したもので、未調査。その規格・品質が取引先を通じて実需者の求める品質・規格となっている。
 
 
 
20160816eiseidsc04893
明治22年
 
 
----------
20160816dsc05072    
 
20160816dsc05079    
  送り火(大岐)
 
 

2016年7月19日 (火)

漆掻きを調べる

■2016年7月19日(火)晴れ


 昨夜より父83歳の検査のためのつきそい。今日は検査(終日)。外科外来。


 
■ 7月18日(月)はかすみ草ベールスター2棟採花中を除草機で刈り倒す。数日採花ができなくなるための措置。
 
 20日以降はホワイトビクトリア、フォレストが開花でそれを採花する予定。定期染め・受注分の少量の採花に留まる。

 
■ 26日の大谷報告会の調査年表A4・4枚を三島町史編さん室宛、PDFファイルで送付した。あと数枚作成する予定。
 
 
■ 会津若松生まれの元朝日新聞記者の田部康喜さんから返信がありました。ありがとうございます。曽祖父が福井県今立郡から会津地域に漆掻きに来られており(内藤氏)、祖父は漆掻きを受け継いで高郷村で仕事をされていた。
 
 
■ 工藤紘一『南部の漆を支えた人びと 越前衆の軌跡』(盛岡・川口印刷工業、2006年刊)。125頁に会津の昭和村が出てくる。

 
 昭和30年頃、2~3年、漆掻きの職人(掻き子)を昭和村(大沼郡)に派遣したことはある。

 上坂武信氏からの聞き書きで平成14年1月に今立町朽飯のご自宅にて。武信氏は、昭和22年、福井県から岩手県に行き住み漆掻きをはじめ、昭和60年に帰郷されている。

 当時の武信氏の本拠は南部(岩手県)であるが、派遣した掻き子はどこの地域の人なのだろうか?

 漆の木の圃場は、下中津川の北域、猿舘山の麓と推察される。戦後、ここに地区共有のウルシノキがあった(上平菅家和孝氏談)。

-----



 6月の環境に配慮した花・MPSフェア開催店舗のスタッフアンケート → 松島義幸さんのブログ
 
 
 少量多品目の花、、、、→ 磯村信夫さん


 成城石井のめざしたもの → 小川孔輔先生
 
 

 

2016年6月 2日 (木)

1851 嘉永五年 木地頭小椋佐源治墓(菊花紋)

■ 6月2日(木)午前調査分より

 
1976   
   1976-10/18撮影空中写真
 
19763   
  木賊平木地小屋 2軒の家屋が見える
 
20160602dsc07868
 2016年6月2日 午前撮影
 
 
20160602dsc07852
 
 
20160602dsc07867
 
20160602dsc07861    
  菊花紋 16弁

  十六八重表菊ではないようである。
 
 
20160602dsc07861_16
 
20160602dsc07855
 
  小椋佐源治墓   と記名

 
 嘉永四年辛壬天 七月十五日   (1851年)
 
 道覚源清清居士
 
 
--------
 近世の野尻組(現在の昭和村)の木地挽(ひき)が残した石像物には、小椋のほか、赤倉木地の相原、玉川木地(奈中沢右岸)の日下・三星・などの記名が確認される。
 

-----
 木賊平(とくさだいら)木地の小椋佐源治は、文政10年(1827)の氏子狩人別帳で、金山谷喰丸村領 に6軒あり、そのなかに人数九人(男五人、女四人) 小椋佐源次(印)で確認される。弘化2年(1845)奉加帳(氏子狩)では、喰丸村木地師9軒で、 木地頭 小椋佐源治 とある。
 
 嘉永2年(1849)氏子駈帳の喰丸山木地師10軒、安政4年(1857)氏子駈帳 喰丸山木地師11軒には佐源治の名は見えない。

 弘化3年(1846)3月の喰丸村宗旨改人別帳 喰丸村領分木地挽共(旦那寺 小野川村 曹洞宗 大乗寺)に、木地頭 佐源次59歳とあり、13人の家族(佐源次59、きち56、熊太郎7、慶次4、円次29、与吉31、なよ35、いし8、留六16、つめ29、ゑつ12、もん)のなかに次男与吉31歳がいる。
 嘉永3年と安政4年の氏子駈帳に小椋与吉があり、佐源治の家督を継いだものと思われる。
 

昭和村大芦のドウロクジン(道祖神)と2本の巨木

■2016年6月2日(木)


 昨日、奥会津・大芦の野外踏査を行った。

 旧道沿いに村人の信仰遺跡が集中して並んでおり、たいへん重要な場所(村の境界)であることがうかがえた。
 特に、大きな松と杉がそれぞれ1本ずつ、ドウロクジン様(木造堂宇内に2神)の背後に植えられ、この樹木は大芦でいちばんの巨木(太さ、長さ)であろう。

 大芦の村が形成された推移を見守る樹齢と、複数の信仰施設を抱える地域で、詳細な調査が必要である。陰刻された文字では近世の施設群とわかるが、それ以前の時代の遺構が地下に確認される可能性がある。
 
 ドウロクジン様には大芦の特産であった木製椀(木地挽き)に孔があけられ奉納されている。また堂宇床下にも多数の奉納された木製椀が見られる。これらは村人が耳がよく聞こえるようにと祈ったもので、貴重な遺産である。

 
 
■1973年に発刊された『昭和村の歴史』(昭和村役場教育委員会)の190頁の「道祖神」の項で、
 「大芦では正月十四日の才の神が終わった後お参りにゆく」


 1990年に筑波大学民俗学研究会が刊行した『大芦の民俗』の91頁に、正月十四日サイノカミの項目で、「大芦中の人が中見沢にあるドウロクジンにお参りに行く。ドウロクジンは道祖神であり、サイノカミである」としている。

 この中見沢のドウロクジンが、今回調査で確認した堂宇と考えられる。

 
■ 3日は、田島(南会津町)で、駒止湿原保護協議会の総会があり出席する(昭和村文化財保護審議員として)。

 
 
20160601dsc07712
  6つ並ぶ石造遺産。庚申塔群。すべて近世のもの。この右の杉林内に念三夜供養塔。
 
  この石塔前の旧道には、最近のツキノワグマのものと思われる糞が多くあった。
 
20160601dsc07711
 
 糞
 
 足跡(下)
 
20160601dsc07709
 
 
20160601dsc07769
 
  念三夜供養塔。昭和村ではこの1基しか確認できない。
 
 
20160601dsc07742
 
   馬頭観世音。背後に大きな自然石があり、この石の上に置かれたものが下に落下したと思われる。巨石の周囲には、信仰の痕跡が多く、発掘調査で確認される事例が多い。
 
 平成20年に出版された『昭和村の歴史Ⅱ  昭和村のあゆみ 昭和から平成へ』(福島県大沼郡昭和村)の大芦の項、229頁には、「足跡のある石」という記載がある。それは、
 「昔の県道沿いの、大きな丸い石には足跡がついている。昔、大芦のどこかが火事のとき、その火事を見ようと石にあがった人がいて、その足跡がついたと言われている」
 これはドウロクジン様の前にある大石である。
 
 ■ 平成4年3月に昭和村役場企画課が発行した、馬場勇伍『昭和村の石造遺産 石鳥居 道祖神 庚申塔』に、大芦の「ドウロクジン様」「庚申塔群」が掲載されていた。
 
 
 
20160601dsc07759 
   ドウロクジン様の堂宇(木造)と、石段、石灯籠(2つに分かれ)。
   石灯籠が置かれた大きな自然石そのものが村人の初期の信仰対象であったと考えられ、その後、そこに堂宇が造営され、2本の樹木(松と杉)が植えられたと考えられる。
 
  この巨石そのものがたいへん重要な意味を持っている。
 
 
20160601dsc07746
 
 
20160601dsc07760
   ドウロクジン様。  左が松、右が杉。大芦ではいちばんの巨木であろう。
 
 
   巨木がドウロクジン様の堂宇を風雪から守り、この巨木をドウロクジン様の信仰が村人の伐採から守り、数百年、村を守った。
 村人の営為は、なにか伝承がたくさんあるに違いないが、なにひとつ調査が行われていない。
 
 
20160601dsc07754
 
   奉納された木製椀。
   これらの椀そのものが、歴史遺産。現在は植物素材の同定、伐採年代が調査できる。それにより奉納年代を同定することができる。また赤と黒に塗られた塗装の分析と、それら色のもつ意味を考えることが必要。
 
20160601dsc07753    
 
20160601dsc07755
 
 
20160601dsc07752
 
    石造2体の御尊像(ドウロクジン様と呼ばれている)
■ 平成4年3月に昭和村役場企画課が発行した、馬場勇伍『昭和村の石造遺産 石鳥居 道祖神 庚申塔』に、大芦の「ドウロクジン様」「庚申塔群」が掲載されていた。
20160602dsc08010_2
 
20160602dsc08000_2
 
 
20160602dsc08001_2

2016年4月26日 (火)

1589年(天正17)10月2日 上杉景勝から横田大学助宛 文書

■2016年4月26日(火) 晴れ 朝は5度。

 
 今週は、終日、かすみ草栽培用パイプハウス建て作業の予定。

  今日明日で、大岐の高畠の角畑のハウス3棟、大畑の1棟、川流の3棟を建てる予定です。今朝は晴れて寒く、午前5時で、気温5度でした。毛糸の厚手の帽子で耳を覆い、ハウス建て作業をはじめました(角畑上1棟)。6時30分ころ博士山稜線から太陽がでると、一気に汗をかくようになります。


 
 雪消えが早く、畑の乾燥具合を見て、適度な湿り気の時に、耕耘、施肥し、ビニルマルチ被覆し畝立て作業を行う場所から、優先してのハウス建て。越冬株のところは最終で建てます。
 


 
■ 先般、会津図書館で調査・閲覧したはじめて確認した文書。

 『新潟県史 資料編五』(1984年)の861頁に、長野県松代町 横田秀雄氏所蔵の「横田文書」(明治二四年影写)が掲載されている。
 
 「4183 上杉景勝 知行宛行状」としている。
 現在の金山町の大塩の城におり、野尻ならびに中津河(現在の昭和村の野尻・下中津川・小中津川域)のことを言っている。伊達政宗に攻められている横田山内氏の当主氏勝の弟・大学助と思われる。

 本家横田山内氏に対して布沢・野尻・川口の山内氏3家は伊達側につき、横田攻撃をしているので、その川口・野尻領知(中津河は川口領)を、功労者には、あてがう、という内容でしょうか?明確には内容を理解ができません。

    菅家博昭 kaken あっとまーく   cocoa.ocn.ne.jp    (ココア.オーシーエヌ.)
 
201604261589
 

■ 横田氏 → 真田宝物館

 『松代 6号』(1993年)   横田家の詳細、幕末に会津(山内家調査)に来ている。

『松代 12号』(1999年) 横田家足跡
 

2016年3月22日 (火)

トルコギキョウ、ジプソフィラ(かすみ草)、花の名前と、消費の低迷

■2016年3月22日(火) 

 
 
 
 →  ■第116回JFMAアフターヌーンセミナー
 「予測:成熟国家・日本の花き生産と流通」
        ~現時点は途中経過~
*日 時  4月12日(火)13:00~14:30
*場 所  法政大学新一口坂校舎501教室
          東京都千代田区九段北3-3-9
*講 師  磯村 信夫 氏
         株式会社大田花き 代表執行役社長
*主 催  一般社団法人日本フローラルマーケティング協会
*参加費  2,500円
*申 込  JFMA事務局
       FAX 03-3238-2701  
 2060321dsc00539
 
 
20160321dsc00555   
 
20160315dsc09177
 
20160321dsc00703
 
2060321dsc00776
 
2060321dsc00777     
 
2060321dsc00787     
 
2060321dsc00792      
 同せん畑山 同膳畑沢 漆畑沢 長井(永井)沢
20160321dsc00285
 
20160321dsc00694

2016年2月26日 (金)

小野川権現様供養碑群の盗難(2011年1月9日)

■2016年2月26日(金)



 昨日午後の文化財の打ち合わせ会で、2011年1月9日に明らかとなった小野川の権現様の供養碑群の観音石像の盗難が課題となった。


20110109mf01

 
20160227dsc08146
 
20101215dscn4129
なくなった石像
 
 
20140506dsc01077
 

 
 20061025dsc00330 
  2008-10-25

2009613img_2281
 
2009-6-13

 
2009613img_2204 
 
20091224img_6064

   2009-12-24

 
 
20101215dscn4129 

 2010-12-15最終
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31