阿波太布 とくしま木頭

2017年4月26日 (水)

伝統の阿波太布製造

■2017年4月26日(水)曇り、午後より雨


 
 午前、角畑2棟目のハウスを建てる(角下1)。3棟目の雪より出たフォレスト1畝(うね)分の剪定。
 
 午後1時30分から駒止湿原保護協議会役員会、2時30分より総会(昭和村公民館)。午後3時42分終了。28名出席。
 
 
■ 24日に来日された馬藍さんから夜に電話がある。在京。28日来村の時間等を打ち合わせた。
 
 
■ 徳島県の木頭の阿波太布製造伝承技術保存会の大沢善和会長(木頭図書館長)から手紙が届く。4月22日に徳島新聞の読者の手紙欄(投稿欄)に拙稿が掲載されたようだ。記事写しが同封してあった。「4月初旬に訪問」です。


 
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  角畑1,2棟。
 
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 大芦
 
 
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  明日の夜は練習会(大芦家)。
 
 
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  山菜の アサヅキ
 
 
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  打ち豆、ダイコン干し
 
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  大芦 五十嵐唯一 遺作展 5/19-
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2017年4月 9日 (日)

後藤捷一の木頭タフ(阿波太布)調査

■2017年4月9日(日)


 調査した人と、それに応えて太布について語った人を調べている。

 
 昨日、「日本の古本屋」というポータルサイト経由で注文した本が2冊届いた。
 4月4日にとくしま木頭出原の太布庵で見たねずみ色(灰色)の表紙の本『無形の民俗資料記録第20集 紡織習俗 Ⅰ 新潟県・徳島県』(文化庁文化財保護部、昭和50年・1975年3月刊)は、内容は国土地理協会から発刊されている赤い表紙の『民俗資料選集3 紡織習俗 Ⅰ 』(1975年5月刊)と同じ。
 調査は昭和37年度(1962)に徳島県文化財専門委員 後藤捷一(しょういち)。
 調査は1962年(昭和37)に行われた。 
 聞き取り調査は、原料植物については安岡岩樹氏(75歳)が話し、紡織については岡田ヲチヨ氏(74歳)、榊野アサ女氏(72歳)の2名から話しを聞いている。(※アサ女は誤りで正しくはアサという。木頭の玄番真紀子氏から4/8の教示)

 

 
 近畿民俗学会編『阿波木頭民俗誌』(1958年・昭和33年3月刊、大阪市東淀川区三国本町58稜霄文庫刊行会 後藤捷一 発行)
 優れた民俗誌である。
 口絵の太布(タフ)製品の角袋の注記をみると、後藤捷一蒐(しゅう)集品、後藤捷一家伝来品、徳島県名東郡国府町早淵 後藤捷一家伝来品(夜具入)、木頭で蒐集したもの(弁当入)などとある。
 また角袋で穀物運搬の荷造(21頁)で2種の用い方(平地、急坂地)。
 角袋はほとんど穀類運搬用であるが、阿波藍全盛時代には はこば・りんごみ・ちりば・どすごみの洗浄用にも使用された(179頁)。

 太布については後藤捷一の調査・視点が鍵となっているようで、彼について調べてみると以下のようである。評伝が私家版で出ている。また蔵書が四国大学に所蔵されている。前述の2冊の執筆のための、調査取材ノートがあるかどうか、興味深い。
 
 『阿波木頭民俗誌』は昭和31年1月1日から4日、翌32年4月3日から6日まで行われている。この時の後藤捷一の行動記録(ノート・写真類)が一次記録となると思われる。
 
 祖谷太布については喜多郷美、逸名の2名から聞いている(167頁)。
 ヒュウジ(苧麻、カラムシ)の記述があり、カジノキ・アサとともに用いた(170頁)。
 
 木頭太布については北川の西ヨシ(68)、折宇の折上ヒサオ(74)、同 西川トキ(67)、出原の松葉シナ(46)。原料採取では元中内の人久保定一(60)、川島の戸田嘉蔵(85)から話を聞いている(170頁)。
 
 
 
 
 染織書誌学研究家後藤捷一は、肝腫瘍のため9月17日大阪市淀川区の東淀川病院で死去した。享年88。1982(明治25)年1月2日徳島市に生まれた。1909年、徳島県立工業学校を卒業、直ちに大阪に出て染料の研究を始める。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、『日本染織譜』など数多くの文献を残し、晩年には約70年にわたって集めた資料や文献を整理、室町時代から明治中期までの計671点からなる『日本染織文献總覧』をまとめた。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった。
主要著書
染料植物譜 高尾書店 昭和12年
同上 複刻 はくおう社 昭和47年
日本染織譜 東峰出版 昭和39年
日本染織文献總覧 染織と生活社 昭和55年

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(264頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
 
 
■ → 後藤捷一
 
 
染織史・郷土史研究家(1892~1980年9月17日)
明治25年(1892)、徳島県生まれ。徳島工業学校染織科卒業。小学校、技芸女学校教員の後、大阪に出て染織・染料の雑誌を編集。大正12年、澤田四郎作 と知りあった頃から郷土研究に関心をもち、阿波の地域史研究をすすめる。昭和9年に大阪民俗談話会(のちの近畿民俗学会)に参加。また戦前・戦後にわたって大阪史談会を主催し、『郷土史談』『大阪史談』を発行。昭和28(1953)年、三木文庫主事。三木家の修史と藍の研究を進める。
後藤氏の旧蔵書(阿波に関する地方史料および国文学関係資料など約17000点)は、没後、四国大学附属図書館(徳島市)に寄贈され、「凌霄文庫」として公開されている。
おもな著作
『染料植物譜』(1937)
『絵具染料商工史』(1938)
『江戸時代染色技術に関する文献解題」日本植物染研究所,1940.1
『稲葉通竜と其著書」大阪史談会,1941
『郷土史談 第4編.吉野川筋用水存寄申上書」大阪史談会,1942
『郷土史談 第5編 (後藤尚豊雑稿)」陵霄舎,1944
『郷土史談 第6編 (飯尾常房考)」大阪史談会,1951
『郷土史談 第7編 (探墓掃苔録)」大阪史談会,1953
『郷土史談 第8編 (阿波の十郎兵衛)」大阪史談会,1954
『細川成之略傳」丈六寺顕彰会,1960.12
『古書に見る近世日本の染織」大阪史談会,1963
『日本染織譜 家蔵版」東峰出版,1964.9
『日本染織文献総覧』染織と生活社(1980)
編纂
『摂州崇禅寺馬場敵討縁起」編.崇禅寺,1932
『染料植物譜」山川隆平共編.高尾書店,1937
『郷土史談 第2編.一ノ谷戦記」編. 後藤捷一,1938
『世界染色史料集成」原田石四郎共編.後藤捷一,1942.4
『郷土史談 第11編 (慈雲院道空細川成之伝)」編.大阪史談会,1959
『郷土史談 第12編 (祖谷山日記)」編.大阪史談会,1962
『郷土史談 第14編 (阿波の芭蕉句碑略考)」編.大阪史談会,1966
『郷土史談 第10編 (有賀長伯阿波日記外篇)」編.大阪史談会,1967
『後藤捷一大人著述目録」岩村武勇編.後藤捷一先生祝寿記念会,1969
『木綿麻日記 校注」松月堂心阿著 編.大阪史談会,1970.郷土史談
『染料植物譜」山川隆平共編.民芸織物図鑑刊行会はくおう社 1972
『十七瀬の水泡」編著.大阪史談会,1977.9.郷土史談
『日本伝統織物集成」監修 辻合喜代太郎編纂.日本図書センター,2011.6
四国大学附属図書館
http://www.shikoku-u.ac.jp/tosyokan4.html
社団法人 三木文庫
http://www.mikisangyo.co.jp/bunka/bunko.htm
 

 

学術資料として、また文化財的資料として「凌霄」(徳島出身で藍の研究家、郷土史家として知られた故後藤捷一氏の旧蔵書)、すなわち阿波に関する地方史料および国文学関係資料など1.7万点を所蔵している。 最近この資料の価値が見直され、大きな関心がよせられている。国立国文学研究資料館がマイクロフィルム化済み。現在、附属図書館では「凌霄文庫データベース」の構築を行っている。

 
 
■評伝と思われる本がある。→ 吉川捷子『後藤捷一 八十八年の足跡』 1981年 川崎市で発行。私家本。日本の古本屋で発注。
 
 
 
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加藤幸治「ローカルなコンテクストにおける民具の理解に向けて 四国・那賀川上流地域の天秤機を事例に」では、 
2003年8月、阿波太布製造技法保存伝承会の中川清会長ら15名から聞いている。
 
 太布では仕事着や袋などに仕立てられる。
 ワッパ袋(弁当袋)
 ツノ袋またはモジ袋(山仕事の道具入れ)
 仕事着、穀物袋、畳の縁。
 阿波三盆糖の黒蜜を搾り出す袋布(60頁)
 60頁の明治30年に鳥居龍蔵と玉置繁雄が民族誌学的調査をおこなっている(鳥居1953)としているが、これは引用文献をそのまま記載したようで、誤りで、調査が行われたのは明治34年である。
 
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■森本孝編、田村善次郎・宮本千晴監修 『あるく みる きく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本 21 織物と染物』(農文教、2011年8月)
 
 昭和42年2月 野生植物の皮を編む(木綿以前) 宮本常一
 
 昭和51年11月 阿波藍小話 後藤捷一
 
 昭和57年6月 木の布・草の布 竹内結子

2017年4月 8日 (土)

鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』(岩波文庫、2013年) 阿波の木頭 訪問年次の誤り

■2017年4月8日(土)

 本日は三島町集落誌の聞き取り調査。

 午後は滝谷地区(2時~)。

■ 4月4日~5日、その後に購入した関連書籍の中味が正しいのかどうか、同時代資料を含め、木頭訪問の日時等を確認した(7日)。

 
 
■ 徳島市生まれの人類学者・鳥居龍蔵(1870-1953)。岩波文庫より『ある老学徒の手記』が刊行されている。晩年の昭和27年に書かれたものである。翌年1月に82歳で死去している。本書はその年に朝日新聞社より出版されたものの文庫版である。
 
 
 台湾調査時代(115頁~142頁)、阿波の木頭(143~144頁)がある。
 
 『ある老学徒の手記』の143頁では明治30年の夏、木頭を鳥居龍蔵、東京帝国大学の人類学教室室員の玉置繁雄の2名が東京から神戸経由で徳島を訪ねている、となっている。巻末の年表もそうなっている。
 しかし、同行した玉置の詳細な報告は『東京人類学雑誌190号』(明治35年1月)に「阿波国木頭山土俗」として掲載され、調査はその前年の明治34年となっている。したがって鳥居龍蔵の自伝の記載は記憶の誤りで、同行した玉置の記録明治34年8月が正しいと思われる。
 玉置も徳島県那賀郡中島生まれで、鳥居龍蔵の里帰りに同行した。
 
■ 4月5日に訪問した徳島市八万町向寺山の徳島県立鳥居龍蔵記念博物館より購入した7冊の報告書でも確かめたが、鳥居龍蔵の木頭訪問は明治34年(1901)年となっている。
 
『みんなで学ぼう 鳥居龍蔵』(2011年)26頁の年表。
 
『展示解説』(2011年)16頁の地図。
 
『展示解説 第2集 地図に見る鳥居龍蔵の足跡』(2012年)の20頁。
 
『鳥居龍蔵 世界に広がる知の遺産』(2016年)。
 
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   明治30年× 明治34年○
 
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『鳥居龍蔵 世界に広がる知の遺産』(2016年) 木頭訪問は明治34年
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■福島市在住の高橋八重子さん(1934年生)がまとめた『藍のいのち』(1995年)に「阿波の太布」が掲載されている。初出は『比較文化研究 27号』(1994年)、『同30号』(1995年)、『福島女子短期大学研究紀要25号』(1995年)である。
 
 論文を福島県立図書館で読み、手紙を書くと2月22日着で『藍のいのち』が送られてきた(2月14日付)。2月26日に自宅を訪ね玄関でお礼を申し上げた。
 
 
 
 この高橋八重子論文のなかに『東京人類学雑誌17巻190号』(明治35年1月刊、1902年)の玉置繁雄の論文「阿波国木頭山土俗」が引用されている。
 
 この原著をインターネットで読むことができる。19頁分
 
 
 鳥居龍蔵は明治30年としているが、玉置繁雄は明治34年の8月の帰省での調査としている。8月20日に木頭の出原に着いている。同行は門田氏、荷物人の計4人。
 調査目的は8月21日、22日と宿泊した木頭の宇井ノ内の上地の豪農 丸山松三郎に会い、話しを聞くためのようである。
 また折宇の岡田家の秘蔵の由来一冊も、来歴を示した重要な書であることが記されている。折宇殿富田、また木地屋が筒井より延享三年に来て営む等。(143頁)
 太布については「木頭太布とて名高し もとは専ら村民の着用せしものなるが、現今は木綿と交換して多く綿服を着するなり」(145頁)
 
 

2017年4月 7日 (金)

クサカジ、、、  阿波の太布の文献調査(会津にて) 話者の記録

■2017年4月7日(金) 雨

 
 昨日、駒止湿原保護協議会 会長 南会津町長 大宅宗吉(事務担当 南会津町教育委員会生涯学習課文化財係)より、平成29年度駒止湿原保護協議会総会の開催通知が届いた。
 4月26日(水)午前1時30分より役員会、2時30分より総会。昭和村下中津川住吉415昭和村公民館2階研修室で開催される。
 役員会にははじめて出席する(昨年7月に昭和村文化財保護審議会委員長となったため)。
 
 昨日、カスミソウ仮植作業後の夕方、三島町宮下の奥会津書房に遠藤由美子さんを訪ね、会津学研究会例会日について相談した。4月16日(日)午後1時30分より、会津坂下町八幡コミセンで開催。『ほんの森』の前の施設です。報告者については(武藤弘毅氏の中国建築調査報告で調整予定、日程があわない場合は武藤氏の報告は6月頃とし、菅家らが台湾苧麻の視察報告を行います)。
 

 
■ 昨夜、東京都内の花束加工業の方から、電話があり、卸売市場で、切り花の安値が続いている、という。この価格で生産者はやっていけるのか?という内容でした。
 昼近くに、金山普及所に電話をしました。大河内氏の農業短大への異動にともない小林祐一氏が着任されました。花き日持ち品質管理認証の更新審査についてお話しをしました(JA本名寛之氏にも)。
 
 
 
 
■ 4月3日~4日に徳島県那賀町(旧・木頭村)の太布調査で撮影した写真900枚(うち35mm一眼レフは300枚)をデスクトップパソコンのディスプレイ(ビューア)で1枚ずつ見直した。撮影時には気づかなかった点について、ノートを作成した。
 
 そして手もとにある文献類を読み直し、関係文献を10点ほど「日本の古本屋」で発注した。1958年に近畿民俗学会編『阿波木頭民俗誌』、1961年に刊行された『木頭村誌』(1242頁)、1969年の四手井綱英編『木頭の林業発展と日野家の林業経営』など。
 特に、文化庁がまとめた『無形の民俗文化財記録20 紡織習俗 1 新潟県・徳島県』(1975年)は重要。これは太布庵で宮本常一編の本とともに、大沢会長に教示された。同じ内容のものが『民俗資料選集 紡織習俗Ⅰ』として国土地理協会より発刊されこちらは入手しやすい。
 
 
■ 文化庁文化財保護部編『紡織習俗Ⅰ』(国土地理協会、1975)の159頁から「阿波のタフ紡織習俗 那賀郡木頭村」は、徳島県文化財専門委員の後藤捷一氏による調査報告である。調査は1962年(昭和37)に行われた。
 
 聞き取り調査は、原料植物については安岡岩樹氏(75歳)が話し、紡織については岡田ヲチヨ氏(74歳)、榊野アサ女氏(72歳)の2名から話しを聞いている。
 
 今回訪問した際に、大沢会長が説明されたなかに「榊野アサ女さんからカジ織りを教わったのが、あの方です」と紹介される。また岡田ヲチヨさんが織られた太布も拝見した。
 安岡岩樹氏は調べてみると高知県生まれで25年間、出原で、馬子を専業とされた(阿波学会資料)。優れた話者であった。
 
 
■ 出原に住む安岡岩樹氏(昭和44年当時 81歳)は父、米治につれられて高知県安芸郡から木頭に転住し、23歳から48歳まで約25年の間、馬子を専業としていた(岡田一郎氏の調査) → 昭和44年8月1日から7日まで木頭村で阿波学会の総合学術調査
 
■ 前掲資料『紡織習俗Ⅰ』では、
 阿波の国では、往時、こうぞ(楮)・かじのき・しなのき・藤・麻・ヒュウジ(苧麻)・ツナソ(黄麻・ジュート)などの繊維で織った粗布を総称してタフ(太布)とよんでいた。本来の太布は昔の栲布で、こうぞやかじのきの繊維で作った織布であるが、のちにこれに類似するものもタフと呼ぶようになった。(166頁)
 木頭のタフ(太布)は、原料に こうぞ と かじのき とをおもに用い、
 まま※ツルコウゾ(ふじかずら)や 麻などを使用したこともあるが、
 現在はツルコウゾ、麻は使用しない(169頁)。
 (※この報告者は ままという言葉を使用している)
 こうぞ と かじのき は、山野に自生し、それを採取していたが、
 両者とも製紙材料となるので、タフを製するというよりも、
 製紙原料として販売するほうが利潤があり、
 製紙原料としは、かじのきよりも こうぞのほうが優秀なので、
 こうぞの栽培が行われ、一部はタフとなり、
 大部分が製紙原料として商取引された。
 
 ニカジ ni-kazi  木頭ではこうぞをニカジと呼ぶ。樹皮をはぐ場合に蒸すため、この名が生まれたものと思われる。
 
 クサカジ kusa-kazi かじのきを木頭では、マカジまたはクサカジともいう。
 生木採取の時期は、こうぞと同じように12月から3月ころまでで、
 まま※こうぞと同様に蒸煮する場合もあるが、
 タフは蒸さず、そのまま皮をむくのが普通である。
 生木はこうぞよりもやや大きいものが喜ばれ、刈り取ったものは日当たりのよい場所で乾燥する。
 この乾燥加減は、皮がよくむけるか、むけにくいかに大きな影響があるので、
 乾き加減を見ることが肝要である。
 そして適度に乾いた幹を縦縞になる程度に表皮をざっと古鎌でこすり落とし、膝で押さえたわめて、こうぞの場合とは反対に、
 梢端部から下部に向けてはぐ。
 皮を約一握りぐらいずつ根元から四、五寸のところを共皮でしばり、竿や張縄に陰干しする。
 つぎにカジ殻(皮をはいだカジの幹部)を割ったものや竹のへらですごいて表皮を取り去る。それから手で揉みあるいは、
 足で踏み、または槌で打つなどして、じゅうぶんに皮を柔らげてから、
 績みにかかる。
 この作業をカジヲコナスという。
 
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 木綿との交換(183頁)
 
 明治以降、タフは自家用以外は、全部入山(木頭地区に入ってくる)して来る商人に売却したり、木綿のものと交換した。
 取引の相手は、美馬郡の穴吹町や、名西部の鬼籠野からのきまった商人であった。一反の値段は六〇銭内外で、普通木綿縞と交換する場合はタフに歩がよく、一反について十銭ないし二十銭の追加金があったが、同じ木綿のものでも絣(かすり)などの高級品には、反対に二、三十銭の追加金を出したものである。
 この場合、こうぞ製品は糸が太いので強く、袋用に喜ばれた。
 蒸すと灰色を帯びた淡褐色となったが、カジ製品は糸が細くて色が淡く、美しいので、値段は上位にあったという。
 
 
 袋類(182頁)
 
 往事は山村の人々が、雑穀を運搬するには、必ずタフの袋(タフ袋)を利用し、急坂では荷負棒の上荷として、剣山周辺においてはなくてはならぬ用具のひとつであった。
 
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 中井伊与太・曾木嘉五郎「阿波国祖谷土俗調査」東京人類学雑誌(第12巻第133号・明治30年)には、
 太布に二種有り。一は麻のみにて織るものにして色白く久しきに堪ふ。
 一は麻を経に楮を横に織るものにして、品質粗悪且つ繊維弱し。
 現今祖谷にて織る所の太布はこの様なりとす。
 而して太布に要する第一の原料たる麻は夏日之を刈り取り、大釜にて蒸し柔軟なるを度とし、之を乾し置き、陰暦十月の頃 之を渓水にて晒して、悉く外皮を去り、冬時雪深く戸外に於て労働する能はざる際、糸車にて紡ぎて糸となし、春に至り機にかけて織る。余等が旅行の際、麻の刈入れに着手せし所あり。或いは既に之を蒸して竿にかけて乾せる所もありし。(168頁)
 
 
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『四国連合共進会 出品物申告書』(明治19年5月1日より同31日迄徳島に於て開催せられた折のもの)
 
 木頭の太布 刈り取りたる楮を数十日間干し(略)古鎌を以て掻き堅筋の創(きず)を入れ、以て一本の楮皮三~四枚に取り、二~三日間蔭乾になし、尚ほ日に干す事九日にして、楮の割枝を皮の裏に充て引き、然る時は表黒皮翻し落つ。夫(それ)より又一日程日に乾し、而して能(よ)く揉み柔らげ、後ち通常の苧の如くウミ、之を二日間水に浸し後、紡車にて撚りて綛(かせ)に掛け、干したる後ち灰にて煮る。
 然る後は河水の流れにて能く灰を落し、縮みたる糸を引延ばし、水気を去り、米糠を附着して糸の縮まざるように竿にかけ、重りをなし乾すなり。
 之を綛にかけ尋常の機に仕立て織物とす。
只 異なる所は経糸(たていと)には織毎に布海苔を引き、緯糸(よこいと)は管巻の儘(まま)煮て用ゆ。
凡(およ)そ七~八反を以て一機となす。
 上等の職工は一反半を織る。機械は地機を用ゆ。(169頁)
 
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 (上)この技術の再現が必要。金属器を使用しないで剥ぐ高度な技術(貝殻を使って苧麻(からむし)を製する技法に似ている)。
 
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 文化庁文化財保護部編『紡織習俗Ⅰ』(国土地理協会、1975)の159頁から「阿波のタフ紡織習俗 那賀郡木頭村」より
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以下の本も同じ内容だと思われます(木頭図書館 太布庵)。
 
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  岡田ヲチヨさん(太布庵)
 
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http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/d003/0004/n035.pdf
 
当時,山元の伸買人として素材生産を行なっていた木
頭村の安岡岩樹氏の話によって,昭和恐慌当時の事例を
みてみよう.
 安岡岩樹氏の父は,明治24年に高知県安芸郡から紙漉
きとして入村してきた.その後,大正5年頃から素材の
取り扱いを始め,岩樹氏もその手伝いをしていた.大正
9年頃から和紙が不況となり,そのため紙漉きを止め
て,素材生産に専念することになった.当時,木頭で最
も大きい山元素材業者は,杣夫から身を起したという南
宇の畦内忠次氏で,彼は黒木を対象に素材業を営んでい
たが,安岡氏は,この畦内氏の下請生産を行なっていた
のである.この伸買の過程で,安岡氏は山林20肋を買入
れ,造林をはじめている.
 
 
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/d003/0002/n037.pdf
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  漆、カジの植付株数   寛永検地(寛永5年,1628)
 
 
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 ■ コウゾ(奥会津ではコウズと発音)、カジの布、太布→ 2月2日の記事
 

2017年4月 6日 (木)

シュロ(棕櫚)の用途(四国とくしま木頭)

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  自生する棕櫚(シュロ)の繊維を編んでいる。刃物カバーである。
 
 
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 太布(カジ織り)の時に、機にかけたタテイトにフノリを付ける道具。手製。
 ワラで作られている。
 このワラは、イナワラ(稲藁)か?、ムギワラ?か、ヒエ(稗)のワラか?は聞きそびれてしまった。山作(やまさく yama-saku、焼畑のこと)地帯なので、畑の植物が多い。
 
 
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   おもし。おもり。
   ござ。
 
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 南宇地区から対岸の和無田を見る。
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徳島生まれ、鳥居龍蔵の仕事(明治~戦前)


■4月5日(水)午前、徳島市内の鳥居龍蔵記念博物館を見た。


 明治34年(1901)に木頭村の調査を行っている。→鳥居龍蔵年表

 
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 明治時代の台湾の民族調査
 
 
 
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 当時の最新鋭のカメラで撮影が行われた。タイヤル族(機織り)↑。ブヌン族↓
 
 
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 森丑之助(台湾)、
 中島藤太郎(明治34年に木頭村の出原、宇井の内から名頃を鳥居龍蔵と歩いている。太布織りの記述も)。福島市の高橋八重子先生の論文(阿波の太布 1990年代の調査)にも紹介されている。
 
 
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 福島県内会津地域にも鳥居龍蔵は来ている。大塚山古墳の発見。
 
 
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 以下、徳島県立博物館
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    木地師の資料。
 
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 徳島県の近世の蜂須賀家の研究者である三宅正浩氏(福島大学准教授、1977年生)は、『岩波講座 日本歴史 第11巻』(2014年)の巻首の「江戸幕府の政治構造」を同時代資料で書いている。
 
 三宅正浩『近世大名家の政治秩序』(校倉書房、2014年)に近世蜂須賀家の課程博士論文(京都大学大学院研究科より2008年に学位授与)。
 書状や日記等の一次史料を用いてより豊かに当時の実態を描く段階へと進展と(略)史料が如何にして伝来したのかという視点からの分析が前提として必要であろう(22頁)。
 

2017年4月 5日 (水)

クサカジ

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 図書館ロビー展示

昔は、なんでも、ワラで作った(ふのりつけ) 太布織

■ 4月4日調査。


 昔はなんでも、ワラで作った、という。道具。
 太布織のとき、縦糸にフノリ(海藻)を付けながら織る。
 
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 コウゾ

 竜の髭 深きに腰を 下ろしけり アイコ
 
 
 鮎のことを「アイ」と発音する、という。
 
 
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 龍 tatsu,ryu  の ひげ

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 太布となる原料 加工されたコウゾ
 
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 コウゾの畑 
 
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   カヤ
 
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  二カジの場所   
 
 
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  コウゾの内芯。焚き付け用。
 
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   ここで水に浸け、河原で寒気にあてる。

 昔は、畑の土の上で行った、という。
 
 
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  サクラ。  

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改良窯とクサカジ(太布 kusa-kazi).ヒュウジ(苧麻、カラムシ)

■2017年4月5日(水)

 
 本日の午後、四国から本州島に渡る。
 
 
■ 4月4日(火)晴天、気温上がる。徳島県内の西部山間地のサクラも咲きだす(3分咲)。午前8時30分に高知県香美市側から四つ足峠(トンネル)を越え徳島県那賀町に。トンネル内の入口で工事のため、かなり時間を待つ。旗を振っている交通整理の指示を待つ。赤い旗は進行禁止、白い旗が通行可能。
 トンネル内の進行方向の左側走行路の舗装の補修が行われていた。これ以降、無人の2灯式縦型の信号(赤の時は進入禁止で表示されている数値が減数され0になると緑色点灯となり通行ができる)が、落石工事場所等に多く設置されている。
 
 午前9時から午後1時30分まで、木頭地区の炭焼き、太布に関する現場(畑、川、蒸し場、太布庵)を見学する。関係者の皆さんには本当にいろいろと教えていただきました。ありがとうございました。
 サクラが咲はじめ、陽光も春のものでした。
 その後、レンタカーで移動し、徳島市に午後6時ころに着く。
 
 
 
■ 「ヒュウジ hyuzi を山から採ってきて出すと男の学生服になって戻ってきた」と中山アイ子さんが語った。戦時中(第2次世界大戦)のことで記憶している、という。ヒュウジとは苧麻(カラムシ)の土地の呼び名である。
 
 
 阿波太布製造技術保存伝承会の大沢善和会長(木頭図書館館長)は、「ヒョウジ hyozi」と発話される。文献ではアサ、カラムシなどを含む繊維植物の総称で、カジは含まれないとする。
 
 
 カジノキーーークサカジ(加工の手法)、コカジ(葉が小さい)、マカジ(ほんとうのカジ)
 
 ヒメコウゾ
 コウゾ(アカソ、アオソ)ーーー二カジ(煮カジ、加工の方法)
 の4種から植物繊維を取り出していた。あるいは紙を漉く原料ともしている。
 
 
 
 生木から外皮を取り出し繊維取り出しに向かう「クサカジ」と呼ぶものと、大きな鉄製の窯と背の高い木桶で蒸す「二カジ(煮カジ)」のふたつの技法がある。あるいはこれ以外の技法があったのかもしれない。
 
 作業呼称にはすべて「カジ」で呼ぶ。カジカリ(刈り)、カジ蒸し、、、、等。
 
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■ 木頭 北川地区 → 山川空のがっこう
 
 
 
 
 
 
 
 
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 四つ足峠トンネル 高知県側
 
 
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   木頭 北川
 
 
 
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  カヤ(ススキ)を敷く。ユズ畑?。
 
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 ツヅラカズラの1本で巻く。
 
 
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2017年4月 3日 (月)

高知県・徳島県の県境に到着、明日は木頭 太布庵へ


■2017年4月3日(月)晴れ


 朝、広島県から岡山駅、瀬戸大橋を列車で通過し観音寺駅前でレンタカーを借りて、目的地へ。高速道は19のトンネルで高知南国インター。そこから山岳地帯に移動した。鶯が鳴き、桜が咲き始めた。

 宿に午後5時30分に着き、人気の少ない温泉に入った。明日は四つ足峠(トンネル)から徳島県那賀町木頭地区の太布庵へ。火曜日の公開。
 
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■早めに到着したので県境を越えて木頭地区を少し歩く。



 
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 木頭文化会館近く(和無田)
 
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  生きがい工房 太布庵
 
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   太布  tafu
 
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