■2017年4月7日(金) 雨
昨日、駒止湿原保護協議会 会長 南会津町長 大宅宗吉(事務担当 南会津町教育委員会生涯学習課文化財係)より、平成29年度駒止湿原保護協議会総会の開催通知が届いた。
4月26日(水)午前1時30分より役員会、2時30分より総会。昭和村下中津川住吉415昭和村公民館2階研修室で開催される。
役員会にははじめて出席する(昨年7月に昭和村文化財保護審議会委員長となったため)。
昨日、カスミソウ仮植作業後の夕方、三島町宮下の奥会津書房に遠藤由美子さんを訪ね、会津学研究会例会日について相談した。4月16日(日)午後1時30分より、会津坂下町八幡コミセンで開催。『ほんの森』の前の施設です。報告者については(武藤弘毅氏の中国建築調査報告で調整予定、日程があわない場合は武藤氏の報告は6月頃とし、菅家らが台湾苧麻の視察報告を行います)。
■ 昨夜、東京都内の花束加工業の方から、電話があり、卸売市場で、切り花の安値が続いている、という。この価格で生産者はやっていけるのか?という内容でした。
昼近くに、金山普及所に電話をしました。大河内氏の農業短大への異動にともない小林祐一氏が着任されました。花き日持ち品質管理認証の更新審査についてお話しをしました(JA本名寛之氏にも)。
■ 4月3日~4日に徳島県那賀町(旧・木頭村)の太布調査で撮影した写真900枚(うち35mm一眼レフは300枚)をデスクトップパソコンのディスプレイ(ビューア)で1枚ずつ見直した。撮影時には気づかなかった点について、ノートを作成した。
そして手もとにある文献類を読み直し、関係文献を10点ほど「日本の古本屋」で発注した。1958年に近畿民俗学会編『阿波木頭民俗誌』、1961年に刊行された『木頭村誌』(1242頁)、1969年の四手井綱英編『木頭の林業発展と日野家の林業経営』など。
特に、文化庁がまとめた『無形の民俗文化財記録20 紡織習俗 1 新潟県・徳島県』(1975年)は重要。これは太布庵で宮本常一編の本とともに、大沢会長に教示された。同じ内容のものが『民俗資料選集 紡織習俗Ⅰ』として国土地理協会より発刊されこちらは入手しやすい。
■ 文化庁文化財保護部編『紡織習俗Ⅰ』(国土地理協会、1975)の159頁から「阿波のタフ紡織習俗 那賀郡木頭村」は、徳島県文化財専門委員の後藤捷一氏による調査報告である。調査は1962年(昭和37)に行われた。
聞き取り調査は、原料植物については安岡岩樹氏(75歳)が話し、紡織については岡田ヲチヨ氏(74歳)、榊野アサ女氏(72歳)の2名から話しを聞いている。
今回訪問した際に、大沢会長が説明されたなかに「榊野アサ女さんからカジ織りを教わったのが、あの方です」と紹介される。また岡田ヲチヨさんが織られた太布も拝見した。
安岡岩樹氏は調べてみると高知県生まれで25年間、出原で、馬子を専業とされた(阿波学会資料)。優れた話者であった。
■ 前掲資料『紡織習俗Ⅰ』では、
阿波の国では、往時、こうぞ(楮)・かじのき・しなのき・藤・麻・ヒュウジ(苧麻)・ツナソ(黄麻・ジュート)などの繊維で織った粗布を総称してタフ(太布)とよんでいた。本来の太布は昔の栲布で、こうぞやかじのきの繊維で作った織布であるが、のちにこれに類似するものもタフと呼ぶようになった。(166頁)
木頭のタフ(太布)は、原料に こうぞ と かじのき とをおもに用い、
まま※ツルコウゾ(ふじかずら)や 麻などを使用したこともあるが、
現在はツルコウゾ、麻は使用しない(169頁)。
(※この報告者は ままという言葉を使用している)
こうぞ と かじのき は、山野に自生し、それを採取していたが、
両者とも製紙材料となるので、タフを製するというよりも、
製紙原料として販売するほうが利潤があり、
製紙原料としは、かじのきよりも こうぞのほうが優秀なので、
こうぞの栽培が行われ、一部はタフとなり、
大部分が製紙原料として商取引された。
ニカジ ni-kazi 木頭ではこうぞをニカジと呼ぶ。樹皮をはぐ場合に蒸すため、この名が生まれたものと思われる。
クサカジ kusa-kazi かじのきを木頭では、マカジまたはクサカジともいう。
生木採取の時期は、こうぞと同じように12月から3月ころまでで、
まま※こうぞと同様に蒸煮する場合もあるが、
タフは蒸さず、そのまま皮をむくのが普通である。
生木はこうぞよりもやや大きいものが喜ばれ、刈り取ったものは日当たりのよい場所で乾燥する。
この乾燥加減は、皮がよくむけるか、むけにくいかに大きな影響があるので、
乾き加減を見ることが肝要である。
そして適度に乾いた幹を縦縞になる程度に表皮をざっと古鎌でこすり落とし、膝で押さえたわめて、こうぞの場合とは反対に、
梢端部から下部に向けてはぐ。
皮を約一握りぐらいずつ根元から四、五寸のところを共皮でしばり、竿や張縄に陰干しする。
つぎにカジ殻(皮をはいだカジの幹部)を割ったものや竹のへらですごいて表皮を取り去る。それから手で揉みあるいは、
足で踏み、または槌で打つなどして、じゅうぶんに皮を柔らげてから、
績みにかかる。
この作業をカジヲコナスという。
---
木綿との交換(183頁)
明治以降、タフは自家用以外は、全部入山(木頭地区に入ってくる)して来る商人に売却したり、木綿のものと交換した。
取引の相手は、美馬郡の穴吹町や、名西部の鬼籠野からのきまった商人であった。一反の値段は六〇銭内外で、普通木綿縞と交換する場合はタフに歩がよく、一反について十銭ないし二十銭の追加金があったが、同じ木綿のものでも絣(かすり)などの高級品には、反対に二、三十銭の追加金を出したものである。
この場合、こうぞ製品は糸が太いので強く、袋用に喜ばれた。
蒸すと灰色を帯びた淡褐色となったが、カジ製品は糸が細くて色が淡く、美しいので、値段は上位にあったという。
袋類(182頁)
往事は山村の人々が、雑穀を運搬するには、必ずタフの袋(タフ袋)を利用し、急坂では荷負棒の上荷として、剣山周辺においてはなくてはならぬ用具のひとつであった。
---
中井伊与太・曾木嘉五郎「阿波国祖谷土俗調査」東京人類学雑誌(第12巻第133号・明治30年)には、
太布に二種有り。一は麻のみにて織るものにして色白く久しきに堪ふ。
一は麻を経に楮を横に織るものにして、品質粗悪且つ繊維弱し。
現今祖谷にて織る所の太布はこの様なりとす。
而して太布に要する第一の原料たる麻は夏日之を刈り取り、大釜にて蒸し柔軟なるを度とし、之を乾し置き、陰暦十月の頃 之を渓水にて晒して、悉く外皮を去り、冬時雪深く戸外に於て労働する能はざる際、糸車にて紡ぎて糸となし、春に至り機にかけて織る。余等が旅行の際、麻の刈入れに着手せし所あり。或いは既に之を蒸して竿にかけて乾せる所もありし。(168頁)
---
『四国連合共進会 出品物申告書』(明治19年5月1日より同31日迄徳島に於て開催せられた折のもの)
木頭の太布 刈り取りたる楮を数十日間干し(略)古鎌を以て掻き堅筋の創(きず)を入れ、以て一本の楮皮三~四枚に取り、二~三日間蔭乾になし、尚ほ日に干す事九日にして、楮の割枝を皮の裏に充て引き、然る時は表黒皮翻し落つ。夫(それ)より又一日程日に乾し、而して能(よ)く揉み柔らげ、後ち通常の苧の如くウミ、之を二日間水に浸し後、紡車にて撚りて綛(かせ)に掛け、干したる後ち灰にて煮る。
然る後は河水の流れにて能く灰を落し、縮みたる糸を引延ばし、水気を去り、米糠を附着して糸の縮まざるように竿にかけ、重りをなし乾すなり。
之を綛にかけ尋常の機に仕立て織物とす。
只 異なる所は経糸(たていと)には織毎に布海苔を引き、緯糸(よこいと)は管巻の儘(まま)煮て用ゆ。
凡(およ)そ七~八反を以て一機となす。
上等の職工は一反半を織る。機械は地機を用ゆ。(169頁)
(上)この技術の再現が必要。金属器を使用しないで剥ぐ高度な技術(貝殻を使って苧麻(からむし)を製する技法に似ている)。
文化庁文化財保護部編『紡織習俗Ⅰ』(国土地理協会、1975)の159頁から「阿波のタフ紡織習俗 那賀郡木頭村」より
以下の本も同じ内容だと思われます(木頭図書館 太布庵)。
岡田ヲチヨさん(太布庵)
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/d003/0004/n035.pdf
当時,山元の伸買人として素材生産を行なっていた木
頭村の安岡岩樹氏の話によって,昭和恐慌当時の事例を
みてみよう.
安岡岩樹氏の父は,明治24年に高知県安芸郡から紙漉
きとして入村してきた.その後,大正5年頃から素材の
取り扱いを始め,岩樹氏もその手伝いをしていた.大正
9年頃から和紙が不況となり,そのため紙漉きを止め
て,素材生産に専念することになった.当時,木頭で最
も大きい山元素材業者は,杣夫から身を起したという南
宇の畦内忠次氏で,彼は黒木を対象に素材業を営んでい
たが,安岡氏は,この畦内氏の下請生産を行なっていた
のである.この伸買の過程で,安岡氏は山林20肋を買入
れ,造林をはじめている.
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/d003/0002/n037.pdf
漆、カジの植付株数 寛永検地(寛永5年,1628)
---------
■ コウゾ(奥会津ではコウズと発音)、カジの布、太布→
2月2日の記事